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独力で人生を切り開いてきた宇梶静江
四方田犬彦(映画誌・比較文学)
宇梶静江は独力で人生を切り開いてきた人だ。
子供のときから、人に無視されるのは平気。その代わり、何でも自分で決め、自分ひとりで始め、自分ひとりで創り上げていく。『大地よ!』という自伝を読むと、貧困と差別という逆境にありながらも彼女がいかに創造的でしかも痛快な生き方を切り開いてきたかがよくわかる。
小学校を出ると家の畑仕事とは別に、人の田んぼで日雇い仕事。芝居が好きで、青年団に入って舞台に立つ。ひらがなしか読めなかったが、ゲーテの詩集を漢字抜きで読み通した。裁縫教室に通い、14歳のときには独力でオーバーコートを縫い上げた。それからキンメダイの行商。反対を押し切って札幌のお嬢様学校へ進学。20歳にして中学生となり、漢字が読めるようになると世界文学を読破。東京に出てタンゴ喫茶の看板娘。やがて結婚。詩を書いて認められ......。だがここまではつまり出自をおおっぴらに語らず、和人のなかに溶け込んで生きてきた。39歳にして新聞に投稿し、東京のアイヌたちに結束を呼び掛ける。都議会に陳情し、都在住のアイヌの生活実態調査を実現させる。これだけでもすごい、しかし活動家として多忙な人生を送るようになってからは、もっとすごい。アイヌ民族の権利回復と文化伝承 に情熱を燃やし、活動はいつしか国際的となる。
わたしは映画研究家であるから、宇梶静江の思想と対抗言説についてはこれ以上述べない。それよりも、彼女を描いた金 大偉のドキュメンタリー映画について、そのスタイルと視線のあり方について、ここでは書いておくことにしたい。
たとえば彼 女の生涯をもしNHKが朝の連続テレビ小説にしたら、どんな風になるだろう。まず 故郷のアイヌの村は、しごく平和なユートピアに描かれる。アイヌ差別の挿話が一つか二つ、いかにも感傷的なタッチで登場し、それでお終い。いわゆるワクチン効果である。知里真志保との対話はカット。視聴者の共感を招き視聴率を上げるためには、七面倒くさい民族問題は歓迎されないのだ。その代わり、演劇を志して上京したとき、宇野重吉と出逢ったことが長々と描かれる。戦争中の苦境と「終戦」の 解放感がノスタルジックに強調され、戦後の流行歌のオンパレードのなかで、主人公はどこにでもいる庶民の戦後女性として描かれる。
もし森崎東が宇梶静江の人生を撮ったとしたら?かつて松竹で『喜劇・女生きてます』シリーズを撮ったこの監督なら、舞台は最初から東京。主役のタンゴ娘を緑魔子に演じさせるはずだ。清川虹子が脇役。ひょっとしたら渥美清や伴淳三郎がチョイ役で顔を見せるかもしれない。冒頭は、ひらがなしか読めないタンゴ娘がトイレのなかで、ゲーテ詩集を漢字抜きで朗読する場面だろう。爆笑に次ぐ爆笑のなかで、彼女がアイヌであるという真実が少しずつ判明してきて、差別主義者の悪玉がコテンパンにやっつけられる。
ではもし原 一男が、宇梶静江を主人公にドキュメンタリー映画を撮ったとしたら?
『ゆきゆきて神軍』の監督はまず彼女が自伝に記したことの一切を無視するだろう。そこに書かれなかったこと、曖昧なまま詳しく言及されていなかったことに着目し、アイヌ活動家としての人生のどこかに亀裂を見つけようとする。焦点は女優に憧れた少女時代と、アイヌである自分を表現できないまま詩を書き続けてきた時代の煩悶に向けられる。日本共産党の文化方針とアイヌ権利回復運動との間の齟齬が、あるいは主題のひとつとなるかもしれない。
金 大偉はどの方法も採らなかった。NHKのメロドラマとも、森崎東の喜劇とも、原 一男の露出主義的ドキュメンタリーともまったく異なった眼差しのもとに、宇梶静江を描いた。映画『大地よアイヌとして生きる』が主眼としているのは、彼女のメッセージをいかに正しく、その豊饒の相において再現するかということである。 また正装したアイヌの面々が火を熾し共食する儀礼を、彼女の語りを含めてキチンと記録することでもある。これはまったく正攻法の撮り方だ。
薄い雲の棚引く、晴れた空。浜辺の野花。風にそよぐ草。陽光を浴びて煌めく波。緑鮮やかな森。世界を黄金に染め上げながら沈んでいく太陽。要するに美しく、恵み豊かな大自然の映像が次々と登場する。いったいだいじょうぶかなあ、これって銀行のカレンダーみたいじゃない?と、思わず茶々を入れたくなるが、そのうちにこうした映像と宇梶静江の内面、彼女のメッセージとが対応関係にあることが少し ずつ理解されてくる。
いくたびも岸辺に寄せる波のアップが登場する。激しく荒れ狂う波。夕陽を浴びて、細かく割れながら打ち寄せる波。沖合の波。それはアイヌ について語る主人公の言説の微妙さに共鳴しているのだ。
講演する宇梶静江。幼少時の記憶を辿る宇梶静江。みずから創作した古布絵を展示する宇梶静江。こうした彼女のさまざまな映像は、右手に杖を握り、海辺に独り立ちながらはるか遠方を眺めている宇梶静江のそれに収斂していく。
自分がなすべきことはすべてなし終えた。今は大自然を前に謙虚に佇み、波の声に耳を傾けるばかりだ。映像のなかの宇梶静江は、さながら巫女であるかのようにそこに立っている。
いや、違う。何も終わっていないではないか。アイヌは世代が下るにつれ、混血となり、和人化していく。本来の儀礼の厳粛さや自然観、そして宇宙観が損なわれ、衰退していくばかりではないか。もう一人の宇梶静江が壇上に立ってそう抗議する。
彼女の立場の分裂を統合するためには、人間を超えたものを提示するしかない。森と海だ。そして浜辺に佇む老女。金 大偉はそう考えている。そしてこのフィルムは 自然の豊饒を讃える。だがそればかりではない。宇梶静江というアイヌの女性が、大自然そのものの隠喩に他ならないことを物語っている。彼女は巨大な自然、つまりマクロコスモスを前に、ただ一人、ミクロコスモスとして向かい合っているのである。
よもた・いぬひこ/ 1953年生まれ。
東京大学で宗教学、同大学院で比較文学を専攻。著書に『映画史への招待』(サントリー学芸賞)『モロッコ 流謫』(伊藤整文学賞)『日本のマラーノ文学』(桑原武夫学芸賞)『ルイス・ブニュエル』(芸術選奨文部 科学大臣賞)『日本映画史110年』『世界の凋落を見つめて クロニクル2011-2020 』他。詩集に『わが煉獄』 他。
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