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  金 大偉 監督が贈る魂のロードムービー!
 『ロスト・マンチュリア・サマン』
  Lost Manchurian Shamans
   この映画は天空の物語である!
〜失われた満洲民族の原郷と薩満の宇宙の時空を求めて〜
 シャーマニズムは、満洲民族の精神であり、魂である!
 失われゆく満族薩滿(サマン)、失われゆく満洲言語
失われゆく文明の悲しみ…
満洲族の音、儀式、文化を描写する文化映像詩!
今に残る最後の満洲族サマンたちの姿を映像美で構成される!
 

   

この映画は、満洲サマン文化の原点に迫り、その歴史や民族的なアイデンティティーを探る物語である。更に  満洲民族の原風景を蘇らせ、その精神や魂を喚起するエネルギーを捉えようとしている。作品全編に渡って、監督自身がカメラを持って旅する形で進行し、満洲の老サマンや次世代のサマンに出会い、彼らの思いや考え方について話して貰いながら、満洲サマン教の貴重な儀式などを撮影する。さらに、満洲族が望む新しい視点を探りながら、シャーマニズムと人々との関係性を追求してゆく。また失われゆく満洲語を話す老人たち、満洲語で歌う「神歌」を含めて、清王朝の聖地としての長白山をも取材した。この作品は、広範囲に渡るロードムービーであると同時に、文化の原型とスピリチュアルな時空を旅するドキュメント映像詩である。                                

                               ※サマン(薩満):Shaman(シャーマン)

 

「ロスト マンチュリア サマン」  作品解説 ------------------------------------------

 鎌田東二 (上智大学グリーフケア研究所特任教授・京都大学名誉教授)

 

ロスト マンチュリア サマン」はこれまでの金大偉氏の映像作品とは大きく異なっている。たとえばこれまでの映像作品『回生〜鶴見和子の遺言』(2001年)『短歌百選〜回生から花道へ』(2004年)は鶴見和子氏の生きざまと歌の世界を、『しゅうりりえんえん』(2004年)『海霊の宮〜石牟礼道子の世界』(2006年) 『光凪』『原郷の詩』(ともに2011年)『花の億土へ』(2013年)は石牟礼道子氏の詩の世界を映像詩として表現したものだった。

 

 それに対して、「ロスト マンチュリア サマン」(Lost Manchurian Shamans)は金大偉氏みずからのルーツに深く潜り込み、失われたあるいは失われつつある満州シャーマンの世界の光と影を描いた作品である。前者は他者の詩の表現世界を、後者は自己のルーツと詩の源泉を探り当てようとする。まさに「魂のロードムービー」と称する所以である。

 

 シャーマンとは、超越の媒介者である。あの世とこの世、霊的世界と現実世界、見えないモノと見える物、相反し対立・分離するかに見える複数世界に接線や補助線を引いて交通可能な状態にし、両者をつなぎ、高次のバランスと秩序を確立しようとする存在だ。

 

 金大偉氏は、この失われゆくユーラシア「薩満(サマン)文化」の核をなすシャーマンの後継者たらんとしている。本作の最後の金大偉氏自身のナレーション「私は天空を見た。天空もまた私を見た。」の語がその証明である。

 

 シャーマンは天地の間に立つ「人」である。天を見る人。そして、天に見られる人である。天地の回路を回復し、両者の相互作用、つまり、つなぎをすることによって新たな活力と秩序構築を図ろうとする人である。天空はこの世であり、またあの世である。現実世界と霊的世界の接線である。シャーマンはその接線を祈りや祭りなどの儀式・祭祀によってつないでいく。そして人々や共同体に根源的ないのちの活力を吹き込み、甦らせ、災いを除去して平安と秩序をもたらす。そのようなミッションを持って活動する。

 

 だが、とりわけ、近代文明世界において、このようなシャーマン文化は遅れた非近代的・前近代的な迷信・呪術と蔑まれ、中国においては文化大革命期に徹底排斥された。これによって死滅するかに見えた「薩満文化」はしかし、1984年以降、徐々に回復してくる。それは、文化大革命が終焉を迎えた後の中国政府の少数民族政策の一環でもあったが、それによって気功や中医学や「薩満文化」は息を吹き返したのである。

 

 とはいえ、共産党が一党支配する、市場経済を取り入れた資本主義化する社会主義国という不思議な政治経済思想体制を取る中華人民共和国においては、趨勢としては、この「薩満文化」も失われゆく民族文化となっている。

 

 本作の中で、金大偉氏は語っている。「中国における満洲民族は、一千万人を超えている中、ほとんど満洲語を話せない。近い将来、この言語は失われるのかも知れない。」

 

 満州語の衰退・喪失と「薩満文化」の衰退・喪失は連動している。民族文化の活力は民衆言語(方言)と民衆宗教(民間信仰)に根ざしているからだ。満州シャーマンすなわち「薩満(さまん)」が歌う「神歌」も祈りの言葉も「子守唄」も、すべて母語の民族語の満州語である。だから、満州語なき「薩満文化」はありえない、という道理となる。

 

 中国遼寧省撫順市に生まれて1979年に日本に移住した金大偉氏は、それから30年を経た2008年の夏、中国東北部の満州族自治区に入る。吉林省九台市の石氏のサマンに会う。翌2009年、黒竜江省に向い、関氏一族の大サマン関玉林師(86歳)と会う。関玉林師は自然崇拝である「野祭」を行なう数少ない大サマンであるが、満州族は森林から出てきた、だから「神樹」を通して天を拝し、天地人をつなぐ回路を見出すと告げる。

 

 本作では、太鼓職人であり剪絵作家でもある関雲徳氏、完全な満州語を話す何世環氏、孟氏一族のサマン孟憲孝師らが、それぞれの経験と知恵から「薩満文化」を語る。

 

 こうした「薩満文化」の担い手たちへのインタビューを通して、金大偉氏はシャーマニズムが満州民族の精神であり、魂であることに気づいてゆく。そして、「次元を超える技法」としてのシャーマニズムの本質に目覚めてゆく。そしてついに、自分自身=金大偉が一個の「薩満(サマン)」であるという大自覚に行き着くのだ。

 

 シャーマン(サマン)は「天地の間で魂の死者としての役割を果たす」存在である。金大偉氏は、本作「ロスト マンチュリア サマン」を通して、「失われゆく薩満」の末裔として、自己の内泉深く潜り込むことを通して、「天空」への孔を見出し、「天空」を見る。ラストシーンの「私は天空を見た。天空もまた私を見た。」の語りは、そのような失われゆくサマンの再生と継承を開示するあかしにほかならない。

 

 それゆえ、本作のポスターに、「天空の物語」、「失われた満州民族の原郷と薩満の宇宙の時空を求めて」とあるのは、その希求と求道の旅のひとまずの終点でもあり、スタートラインでもあるこの現在の天地人の統合の一点を告知するものだといえよう。

 

                    

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